近年のデジタル技術の進化は、私たちの経済のあり方を根底から覆しつつあります。その中でも特に注目を集めているのが、需要と供給の変動に応じて価格をリアルタイムで変更する**「ダイナミック・プライシング(変動価格制)」**の広がりです。かつては航空運賃などで見られたこの価格決定の手法が、今や外食産業をはじめとした経済全体へと浸透し、「教科書の世界」で語られていた市場の合理的な価格決定が現実のものになりつつあるのです。
具体的な事例として、タイのバンコクにある焼肉店「ムー・アンド・モア」での取り組みを見てみましょう。このお店では、レストラン予約アプリ**「イーティゴ」**を導入することで、平日の午後4時半といった本来は客足の遠い時間帯でも、すでに3組の客が食事を楽しむという光景が見られるようになりました。これはアプリを通じて夕食時よりも早い時間帯を予約すると、通常の半額で料理が提供されるという仕組みによって実現しています。かつては閑散としていた時間帯が、今やアプリの力で集客できるようになったのです。
「空席は最低価格」という哲学を徹底するのは、ドイツ出身のマイケル・クルーセル最高経営責任者(CEO)が率いるイーティゴです。同社は、30分ごとの見込まれる客数と店の期待利益率を掛け合わせ、最適な割引率を導き出します。これにより、外食産業が抱える「空席率7割」という課題に対し、埋まる席は最高価格、空席は最低価格というメリハリをつけ、店の利益を最大化することを目指しています。需要のデータを活用し、その都度最適な価格を瞬時に弾き出すこのダイナミック・プライシングは、市場の「見えざる手」をデジタル技術で可視化していると言えるでしょう。
この変動価格制の波は小売業界にも押し寄せています。米ハーバード・ビジネス・スクールのアルベルト・カバロ准教授の調査によれば、米小売大手における定価改定の周期は、2008年から2010年の平均6カ月半から、2014年から2017年にはわずか3カ月半にまで短縮されたことがわかっています。定価の「寿命」が半減したと言っても過言ではありません。さらに、米アマゾン・ドット・コムに至っては、一日に250万回もの価格変更を行うという調査結果も出ており、カバロ氏はネット通販が牽引するこうした価格変動の動きを**「モア・アマゾン・エフェクツ」**と名付けています。
膨大なデータによって需要が「見える化」されると、究極的には個々の消費者ごとに価格を変え、企業が利益を最大化する**「価格差別」**も技術的には可能になります。しかし、アマゾン首脳は2019年3月、米国の研究者らに対し、「価格差別はしない。取り返しがつかなくなる」と明言したそうです。たとえデータに基づくと説明したとしても、個別の値付けは顧客にとって「事実上の値上げだ」「不公平だ」といった強い反発を生むリスクがあるからです。デジタル技術の進展が、必ずしも企業のエゴをそのまま許容するわけではない、という倫理的な側面も浮き彫りになっています。
📉物価の「低温経済」と中央銀行の難題
デジタル化の進行は、消費者にとって世界中の商品の最安値を容易に比較・検索できる環境をもたらしました。その結果、先進国ではインフレが抑え込まれ、**「低温経済」**が続く傾向が見られます。経済協力開発機構(OECD)のデータによると、加盟国の消費者物価指数(CPI)の伸びは、1980年の14.78%をピークに、近年は1%から2%台で推移しています。これは、価格が頻繁に、そして小刻みに動き、市場の需給を効率的に反映し始めたことと無関係ではないでしょう。
経済学の定説では、値札の書き換えにかかる費用や他社の価格調査の手間といったコストがあるため、価格はなかなか変わりにくいとされてきました。しかし、約240年前にアダム・スミスが提唱した**「見えざる手」**、すなわち市場メカニズムの働きが、デジタル技術によって現実世界に鮮明に現れ始めたのです。価格が常に最適な水準に向かって調整される経済においては、従来の物価統計だけではその実態を正確に把握することが困難になります。
私の意見として、このダイナミック・プライシングの広がりは、単なるビジネスモデルの変化に留まらず、金融政策の根幹に関わる重大な問いを投げかけていると考えます。物価の安定を主要な目標に掲げ、金利操作などを行う中央銀行にとって、価格が常に最適化される経済では、物価をコントロールする意味合いが薄れてしまう可能性があるからです。デジタル技術が導く最適化された価格は、モノやサービスの価値だけでなく、私たち人類が築き上げてきた金融の仕組みそのもののあり方をも問い直す、まさに**「ネオエコノミー」**の幕開けを告げていると言えるでしょう。
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