世界経済の拡大を追い風に成長を遂げてきた日本の化学業界が、今、大きな岐路に立たされています。2019年5月31日時点の状況として、中国経済の減速や米中貿易摩擦の激化といった世界的な不確実性の高まりが、業界全体に暗い影を落としているためでしょう。市場では化学品の市況、すなわち取引価格が軒並み悪化し、国内の大手化学メーカー各社の業績にも頭打ちの傾向が見え始めているのであります。
この厳しい向かい風のなか、2019年5月中旬の決算会見で住友化学の岩田圭一社長が「現状は楽観できない。2019年度から2020年度の2年間は踏ん張りの時期だ」と述べたように、国内化学業界全体に緊張感が走っています。かつてない好況を謳歌した大手総合化学6社のうち、2019年3月期決算では4社が営業利益を前期から減少させる結果となったのです。その主因は、これまで高い収益を支えてきた汎用化学品の採算悪化にほかなりません。
たとえば、三菱ケミカルホールディングス(HD)や住友化学の主要製品であるメタクリル酸メチル(MMA)、これはアクリル樹脂の原料となるものですが、市場価格は2018年夏のピーク時である1トンあたり2,700ドルから、直近では1,900ドルへと3割近くも急落しています。また、旭化成が得意とするアクリロニトリル(AN)、これはABS樹脂の原料となるものですが、こちらも需要と供給のバランスが緩んだことで利益幅が縮小傾向にあるのです。世界経済の減速感が強まる中、市況の急回復は望めず、この逆風を乗り切るため、各社はこれまで培ってきた高度な技術を活かした高機能製品の拡充に活路を見出そうとしているのでしょう。
次世代技術「5G」と「CASE」が牽引する高機能素材市場
多くの化学メーカーが大きな期待を寄せているのが、次世代通信規格の「5G」と、自動車の革新を示す「CASE」といった次世代技術関連の市場拡大でございます。「5G」は大容量データを瞬時に送受信できる画期的な通信規格であり、1平方キロメートルあたり100万台の端末と同時接続を可能にするため、IoT(Internet of Things:あらゆるモノがインターネットに繋がること)の基盤技術となるものです。その技術構築には、日本のメーカーが持つ高精度な素材力が不可欠だといえるでしょう。
例えば、AGCはNTTドコモと共同で、携帯電話向けの基地局として電波を送受信できるガラス素材のアンテナを開発いたしました。これは、通常の鉄塔やビルの屋上に設置する基地局と異なり、ビルの窓ガラスの内側に設置できるのが特長です。5Gの大容量通信に対応するためには、都市部に基地局を増設する必要があることから、容易に設置できるガラスアンテナは高い需要が見込まれています。また、現在在庫調整局面にある半導体の需要も、5Gの普及に合わせて2019年度後半には回復し始めるという見方が多く、信越化学工業やSUMCOなどが優位性を持つシリコンウエハーなどの半導体基板、そしてその周辺素材の引き合いも高まることが期待されています。
さらに、CASE、すなわちConnected(つながる車)、Autonomous(自動運転)、Shared(シェアリング)、Electric(電動化)に象徴される次世代自動車技術のなかでも、EV(電気自動車)などの電動化の流れは化学業界にとって大きな追い風です。特に、動力源として有力視されているリチウムイオン電池の関連素材開発には、各社が激しく技術を競い合っています。リチウムイオン電池の主要な構成要素である正極材、負極材、セパレーター、そして電解液のそれぞれにおいて、日本のメーカーが強みを発揮しています。発火の防止や長寿命化といった高性能を実現するためには、これら部材の技術革新が欠かせない要素となるでしょう。
実際に、負極材の分野では、日立化成が電池容量を高めるために、従来の材料である黒鉛にシリコンを組み合わせた新しい素材を実用化しています。また、セパレーターの分野で世界のほぼ半分を占める首位の旭化成も、国内外で生産能力を増強しているところです。このように、国内各社は有望な新市場において、自社の強みを活かせる素材のイノベーションと生産の拡大を推し進めていますが、欧米や中国のライバルメーカーも猛烈な勢いで追い上げを見せている状況です。
業界再編の波とマテリアルズ・インフォマティクス(MI)の必要性
この激しさを増す国際競争を勝ち抜くためには、海外メーカーとのM&A(合併・買収)に留まらない、業界の再編も避けられないでしょう。国内の上場化学メーカーは200社を超えていますが、米ダウ・デュポンの3分割や、独バイエルと米モンサントの統合といった、海外大手が機能に特化して開発力を高める動きがあるなかで、国内勢の小粒感は否めません。私は、このままでは日本の技術力が世界に埋没してしまうのではないかと、強い懸念を抱いております。
さらに、人工知能(AI)や研究関連のビッグデータを駆使して新素材を効率的に開発する「マテリアルズ・インフォマティクス(MI)」という手法が広がりを見せており、IT(情報技術)関連の投資の必要性も増しています。この新しい波に対応するためにも、日本の化学各社は一定の事業規模を確保し、開発体制を強化しなければ、国際競争で後れを取ってしまう可能性があります。このような背景から、日立製作所が事業再編の一環として子会社である日立化成の売却方針を固めた件や、三井化学などの国内大手が日立化成との連携に関心を示すなど、業界再編の機運が一気に高まる兆しが見えているのです。
SNS上でも、「化学メーカーの高機能材シフトは必須」「中国の景気減速の影響がここまで大きいとは…」「MIを活用しないと生き残れない時代が来た」といった意見が多く見受けられ、業界の変革に対する関心の高さがうかがえます。これまでの先行投資をいかに活かし、次世代技術のデファクトスタンダード(事実上の世界標準)となる欠かせない存在となれるかが、今後の各社の優劣を決める重要な鍵を握るでしょう。化学産業の持続的な成長と国際競争力の維持のため、私は国内勢の大胆な決断と連携強化を心から期待しています。
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